銀平町シネマブルース 

2023年に公開された城定秀夫監督の作品である。
この映画を観て初めて城定監督のことを知ったわけだが、とても巧みな画面構成だったため興味を持ち調べてみたら、あるわあるわ40作品程の監督作品。
ソフトポルノ作品やVシネ系まで扱う幅広さ。近年は年間5,6作品を多作している。

その監督経験が活きているのかこの作品(脚本いまおかしんじ)には、キャラクターづくりの巧みさや、役者の色気、テンポ良いストーリー、コミカルな会話など、決して派手なストーリーとはいえない物語を、小気味の良い青春エンターテーメントとして見事に映し出している。

ある地方都市、銀平町にある鄙びたミニシアターを舞台に、そこに集まるユニークな映画ファン達と映画館の支配人(吹越満)が、故郷の町を久しぶりに訪れた、莫大な借金を抱えた新人映画監督(小出恵介)との出会いにより、映画のすばらしさを再び共有し、人生の再生へと向かうストーリーだ。

この映画を観ていてある想いがよみがえった。
井筒和幸監督作品『パッチギ』(2005)である。
それには理由がある、今回の主演である小出恵介は『パッチギ』で映画デビューをしていたからだ。
映画の中身はまったく共通性はないのだが、シリアスな現実(ホームレスがヤクザまがいのNPOにより生活保護給付をとらされるなど)問題を突き抜けて生きる、逞しい若者たちへのエールのようなストーリー展開など、エンタメ作品としての完成度が似ていると思わせたのかもしれない。
また今回、映画に初チャレンジしたという歌手の藤原さくらは、『パッチギ』の主演女優である沢尻エリカに激似で、なんと役名もエリカであったのだ。

城定監督自身は『パッチギ』へのオマージュであるとは公言していないが、決して意識していないとは言えないエンタメ作品に仕上がっている。

忘れていけないのは、もう一人の主役である役者、宇野祥平である。
メインストーリーに絡み合うように配置された、ホームレス(佐藤信夫)役であり、映画冒頭から主人公に絡む演技は、とても印象的でその後ずっと彼が画面に現れるたびに通奏低音のような人生の機微をひょうひょうとしたその風貌で表現している。

定職に就くことが嫌で、ホームレス生活を長く続けている彼の最大の喜びは、なけなしの金で観る映画である。持ち金のすべてをビールにつぎ込む彼の日常だが、映画館だけが彼に生きる意味を教えてくれる唯一のものなのだ。

ミニシアターブームも遠い過去となり、コロナ禍を青息吐息でやり過ごした映画館は今その存続の岐路に立たされているところも多いと聞く。
そんな映画館を舞台として、集まる映画ファンと町の人々が再び町と人生に光を灯す機会として再生していくように、全国の映画館で長く愛される映画になればと願って止まない。

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早春 小津安二郎作品

小津映画を語る人には、なぜかあまり取り上げられない映画であり、その映画評を聞く機会もなぜか少ない。

私は戦後の小津映画に度々登場する女優、淡島千景が好きである。

淡島は、それまでの小津映画には、『麦秋』(1951)と『お茶漬けの味』(1952)に出演している。

他の出演映画を含め、淡島の演じる役柄は、溌剌とした活発な女性が多く、コケティッシュな(例えば、オードリーヘプバーンのような)女性の魅力を存分に発揮したものが多くそんな彼女の立ち振る舞いがとても好きでした。

しかし、この早春で主役の夫婦を演じる淡島は、その闊達なイメージを封印し、夫(池部良)の愛情の不在に不安を抱き、夫と職場仲間の女(岸恵子)不倫に傷ついていく女の情念を見事に演じ切っている。

そもそも、小津監督がストレートに男女の物語を中心に描いたこのストーリー自体が特質すべき作品であり、それまでの(これ以降も)映画とは異質な感じがすることも、映画評論の筆を遅らせた原因かもしれません。

もちろん、1948年作品である『風の中の牝鶏』も夫婦の情愛のすれ違いを描いた作品ではあるのだが、この作品はその情愛の背景にある社会(戦後直後の社会の人間像)問題がメインテーマとして描かれているからだ。
この映画も、小津作品としては異色のイメージを持つ作品と評されているが、早春ではさらに戦後日本のありようを予見的にとらえている作品といえるだろう。

早春を初めて観た時、この映画が1956年の作品であるということに戸惑いを覚えた。
それは、物語りの背景となっているサラリーマン社会の悲哀が、こんな時代から顕在化していたという事によるものだ。
まだ、戦後10年を過ぎた頃の都市社会で、60年代の団塊世代の登場前にこうした問題がテーマとなっているという事実についてである。

二十歳前後の青春時代を戦場に過ごし、命からがら帰国できた若者たちが、ようやく取り戻した平和な世の中がそれであった。

ある意味、この時代の若者たちは、平和な社会という理想からどんどんずれていく社会のありようについて戸惑いを始めた世代なのかもしれない。

主人公たちは、戦地を転戦し生き残った者同士たびたび戦友会を催し、旧友を確かめるのだが、戦地で歌った歌を合唱し、戦死した友のことを語り、戦地で食べた犬の味を語りしている時がなによりも活き活きとしている。
そして、会社生活に戻ると再び迷いの中に埋没してしまう。

戦友会の帰路、酔っぱらった二人の友を連れて家に泊まらせるのだが、そのだらしない姿を見た妻は、実家戻り母(浦辺粂子)に「あんなのが兵隊だから日本は戦争に負けたのよ。子供の命日さえわすれているんだもん」と夫の不義理を詰る。

このように、男と女の情愛さえも、戦後社会の中でじわじわとズレてゆき、それぞれがそれぞれの孤独を深くしてゆく。

戦後生まれの我々が錯覚していた、60年代の高度成長の中で、団塊の世代の憤りとともに現れた、戦後社会への反乱の因縁が明らかに、戦争と戦後社会の中で産み落とされていたという事を改めて教えてくれた映画ともいえるのではないだろうか。


早春





 

宗像姉妹 1950年小津監督作品

この映画を以前から観たいと願っていたが、ストリーミングのコンテンツには見つけられず長い間お預け状態だったが別のサービスでようやく見ることができた。

1950年と言えば、後年にいわゆる『紀子三部作』と言われる小津作品の代表作の最初の一作『晩春』が撮られた翌年のことだ。
その翌年に『麦秋』(1951)、翌々年に『お茶漬けの味』(1952)、その後『東京物語』(1953)と続いている。

間に挟まれたこの作品と、『お茶漬けの味』を除けば、三部作は同じような家族劇であり出演する俳優陣も似通っている。

この作品も『お茶漬けの味』も、戦後復興期の家族を描いていることは三部作と変わらないが、この作品はやたら暗く、後者はなんだかソフトタッチな仕上がりになってる。

調べてみたら『お茶漬けの味』は、小津が復員した後の1939年にシナリオ化されたが、内務省の事前検閲でクレームが付き制作中止となったものの戦後版リメイクだという。

優れた映画監督だから、さまざまな視点から作品が作られるのは当たり前であるとはいえ、この作品だけは異様に暗く重い出来栄えなのである。

戦中に結婚した夫婦は、妻の父(笠智衆)の東京の家で妻の妹(高峰秀子)と三人で暮らしている。
父は京都の寺に間借りして暮らしていたが、癌で余命いくばくもないことを、父の友人の大学教授から姉(田中絹代)は告げられた。

夫(山村聡)は失業中で家にこもっており、代わりに妻はバーのマダムとして働きに出ているが、妻の献身にも無関心な夫の態度に妹はイライラを募らせていく。

そんな中、独身時代に心を寄せていた男(上原謙)がパリから帰国し、バーの運営資金の工面をしてもらうことになったが、そのことを知った夫が妻の不貞を疑いつらく当たるので、挙句バーを閉めることを決意する。

妹はそんな姉の姿を「古い」考えだと詰り、離婚して男と一緒になることを勧め、男も一緒になろうと約束をするが、そこへ酔った夫が突然と現れ「仕事がみつかった。祝杯をあげよう」と言ってその場から立ち去ってしまう。
夫は一人酒場に現れ、酒を浴びるように飲んだあと家にたどり着き、二階に上がったとたんに倒れ死んでしまう。

一度は夫を捨て男の元へいこうと決意した姉ではあったが、「夫の暗い影を置いてはいけない」と決意を翻してしまう。

ストーリーはざっとこんな感じで、全体的に暗く滅滅としている。
銃後の妻のような戦中の抑制的な女性である姉に比べ、妹は戦後女性のモデルのような解放的で快活な女性として描かれ、それゆえに分かり合えない。

妹はそんな姉夫婦に戦時体制下の不条理を感じ取り、時代は変わったのだということを知らしめようとするのだが、「ずっと古くならないことが新しいことだと思うの」と姉は180度ひっくり返った社会を当然のように受け入れることを拒否しつづける。

夫は亡霊のような姿となり、ようやっと明るい戦後社会の片隅になんとか生きていた。
一緒にいた仲間はすでに墓場で亡霊となっている。
画面の中でずっと生霊(ゾンビ)のように漂っていた夫は、他の人々のように過去を捨て去れない人(小津監督)の心象を表わしているのかもしれない。

エンターテーメント(普遍性)であるべき映画ではあるが、社会の大きな分裂のはざまで苦しむ人(固有性)の姿をその中に両立させようと格闘する、監督が描かずにはいられなかった作品ではないでしょうか。

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お茶漬けの味 1952年小津監督作品

俳優、佐分利信が好きだ。

なぜだか自分でもその理由がはっきりわからないが、出演作品の中で見せる彼のたたずまいがとても印象的なのだ。

小津作品の中でも多くの作品に出演しているが、その中でもこの作品や戦前の「戸田家の兄妹」など特にすばらしいと思う。

この作品には43歳頃の出演であるが、役どころは大企業の部長役で実年齢以上の貫録を見せている。

この作品は一般的に、小津作品の中では評価が高いとは言えないが、メロドラマとしてはよくできている。

そもそもこの作品は戦前(1931年頃)に脚本化されたが、当時制作の段階で改めて検閲が入り、全面改訂を求められたため敢え無く制作が中止されたという経緯をもっている。
もともとのタイトルは「彼氏南京に行く」というもので、戦地に召集される夫を主人公にしていたようで、戦後に改めて脚本に手を入れて、南米へ出張に行く会社員の物語になっている。

物語りでは、見合いで良家の娘(木暮実千代)と結婚をした夫(佐分利信)は、妻には頭が上がらず、徐々に夫婦の間には溝が生まれていた。
そんな二人の関係をよく知っていた姪(津島恵子)は、見合い結婚には懐疑的であったが、見合いを母(三宅邦子)と叔母から勧められすることになってしまうのだが当日見合い会場から逃げ出し、叔父らの遊ぶところに合流してしまう。
その夜そのことを知った妻は夫を詰り、二人の関係はさらに悪化してしまう。
妻は翌日一人で旅に出てしまったが、急遽夫に南米への出張命令が下り、妻に告げる間もなく旅立ってしまった。
旅から帰った妻は、出張に旅立ってしまった事実にショックを受けうなだれるが、飛行機の故障により日本に引き返し、夫はその夜家に戻ってくる。

妻は夫に自分のわがままを詫び、以前には夫のお茶漬け(お茶をご飯にかけて食べる行為)を嫌っていた妻だが、この夜二人でお茶漬けを食べ二人の気持ちが通じ合うという結末を迎える。

ストーリーだけ追えば単純すぎるように見えるメロドラマで、それが作品の評価を落としているかもしれないが、もともと戦中に作られた脚本なだけに、作中にも戦争が影を落としている。

ストーリーの中で、戦死した友人の弟(鶴田浩二)に対して、就職の便宜を払いなにかと面倒を見たり、弟と連れ立っていったパチンコ屋の主人(笠智衆)が戦地でともに戦った部下であり、二人は座敷に招かれ、南島で過ごした当時を懐かしく回想するというエピソードが描かれている。
笠が今も戦争当時を引きずって生きている男として描かれているのに比べ、佐分利は当時のことを封印して戦後社会を生きている男として描かれているようで、そのためか、笠が懐かしそうに歌う戦地の歌に、指先で拍子を入れつつも、顔には複雑な感情が現れている。

その意味では、この作品も戦後社会を生きる人々の物語であり、それぞれが戦争の傷を抱えながら孤独に耐えているという姿が通奏低音のように聞こえてくる。

変更以前のもともとの脚本は戦中を舞台とした内容であり、夫は突然戦地(南京)に召喚されてしまうというストーリーであったろうと思うと、会社から急遽出張命令が下る社員というよりはさらにシリアスな展開であったろうことが予想される。

いかにも実直で硬派なイメージ(戸田家の兄妹など)のある佐分利信が、やさしげで妻に弱い男の背景にある人間味を見事に演じているところに惹かれるのである。

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にっぽん泥棒物語 1965年山本薩男監督作品

以前からストリーミングのリストにあったのだが、なぜだか見逃していた作品。

戦後直後の東北地方を舞台に泥棒稼業(蔵破り)で稼いでいた男(三國連太郎)が、保釈中に働いた泥棒稼業中に遭遇した列車転覆事故について、逮捕された元国鉄職員と獄中で出会い、そのえん罪を知ったのだが、顔見知りの刑事(伊藤雄之助)に脅されて嘘の証言を捏造されてしまった。
しかし、保釈中の主犯格の親子に出会い、真実を証言することを決意するというストーリーだ。

ドラマ前半は、泥棒稼業で刑務所に送られる度に、次は絶対に失敗しないと懲りないコメディ色の強いものであったが、列車転覆事件に遭遇して以来、ようやく更生しようと誓い、過去を断ち切り妻子とともにまっとうな人生を過ごそうとするも、えん罪を立証することにより家族の人生が暗転することを恐れるシリアスな物語へと変化してゆく。

不思議なストーリー展開だなと思ったら、案の定これは戦後実際にあったえん罪事件(松川事件)をモデルにしているということだ。

1949年に福島の松川駅周辺で東北本線の列車が転覆し、乗務員三名が死亡する事件がおこった。事件で逮捕された国鉄職員ら20名は自白強要により有罪となったが、1961年には死刑判決から5回の判決を経て全員が無罪を勝ち取った。

この映画は、その判決後に制作されており政治的な影響はないものの、明らかに松川事件をモデルにしたものであり、作品そのものにもリアリティーが影響している。

証言台に立った主人公が最後に「俺たちを捕まえる警察が、俺たちよりも嘘つきだったというのはいったいどういうことでしょう」というオチのセリフが味噌であった。

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しとやかな獣 1962年 川島雄三監督作品

ここで川島雄三監督の映画を取り上げていないことに気が付いた。

 

監督の作品はこれまで、『洲崎パラダイス赤信号』『幕末太陽傳』『雁の寺』『女は二度生まれる』を見たが、どれも素晴らしく唸らされる作品であったが、この作品もさらに素晴らしい内容で驚いた。

この映画の斬新な映像と演技のすばらしさはもちろん監督の力によるところ大だが、原作と脚本が新藤兼人であるところが本作品を特別なものとしているようだ。

この作品のドラマは5階建て団地の2Kの空間の中でほとんど進行してゆく。
この狭い団地の一室に暮らす住人は、老齢の夫婦とその子である兄妹だ。
オープニングは室内でこの夫婦がなにやらバタバタと家具を移動している場面から始まる。
息子が会社の金を横領したとして訪ねてくる会社社長から優雅な暮らしぶりを見て咎められないよう隠しているのである。
息子の横領した金の一部と、小説家の二号として送り出した娘に頼み込ませた借金で夫婦は生活し、小説家が二号のために買い与えたその団地にいつの間にか転がり込み生活している。

親子で詐欺行為をしているような家族であるが、親も子もそれが当たり前のように暮らしている。
息子を探し怒鳴り込んできた会社社長達の追求を右から左へと受け流し呆れさせ、なんとか帰らせ、何事もなかったように日常生活に戻る父親(伊藤雄之助)と母親(山岡久乃)。
そこへ、息子はちゃっかりと戻り悪びれもせずビールを飲む。その後には、妹が小説家から愛想つかされ返されてくる。


ここまでは、ドタバタ喜劇のように進んでくるのだが、親子で言い争いが始まり、父親が「また元のような生活に戻りたいのかと」言うと、一変ストップモーションのようなアップで母親の曇ったシリアスのアップから、息子、娘、父親へと続き「私はあんな雨漏りのするバラックの暮らしは二度とごめんだ、犬や猫よりもよっぽどひどい人間の生活ではない」というセリフに続く。

この家族が戦後大変な貧困の中で過ごしてきたという背景が明らかになる瞬間だ。
戦中は、海軍中佐で羽振りの良かったこの父親も、戦後一転して軍属の汚名の元零落し、家族とともに大変な辛苦の経験を持つ。

そんな過去を持つこの詐欺家族をさらに上回る悪事を働く者が登場する。
息子が横領した金を手練手管で吸い上げる愛人が、会社の経理を担う職員三谷(若尾文子)である。
三谷は、息子から巻きあげた金をもとに旅館を開業し、親子(5歳の子ども)と暮らすことを夢見ている。
三谷は、息子からだけではなく、会社社長や会社の担当税務職員(船越英二)からも、色香で騙し金を横領していたのだった。

ストーリーとしては最後まで悪事はバレず(小説家は娘と切れ、警察から呼び出しを受けた税務署職員は団地から飛び降り自殺する)、金ずるをすべて失ったこの一家にもしばしの安息が訪れるが・・


悪女を演じさせたら右に出るもののいない程、その美しさとしとやかさの陰にある悪魔的な表情を見せる若尾文子の演技を存分に引き出した監督はまさに確信犯だ。

人間の狂気が戦中から形を変え、戦後になっても途切れることなく続いているという社会の実像を、室内劇という限られた空間の中で、カメラアングルや明暗効果、巧みなモノローグや和楽器による劇伴など、これでもかというほどと画面に迫ってくる演出には監督の執念すら感じる。喝采


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蒲田前奏曲 2020年公開作品

もちろん見てみようと思ったきっかけは、『蒲田行進曲』という深作欣二監督1982年の名作を思い出したからである。
原作者のつかこうへいが自ら脚本を執筆した当時大変ヒットした映画だった。

もう一つあるとすれば、最近日本の映画史的なことに関心があり、松竹の蒲田撮影所のことが気になっていたからかもしれない。

そう、もう一つあった。
以前観た新人監督の映画『逆光』の監督兼役者である須藤蓮が出演していたからでもあった。彼の名前で検索したらストリーミングにこの映画が現れたことが直接のきっかけだった。


だから、この映画が4編のオムニバス形式になっていて、それぞれ別の監督が全く異なった視点で製作されたものであることは観てから知ることになった。

4編のいずれの作品も監督は、若い新進気鋭であるということで誰一人知らない。

第一話「蒲田哀歌」の主演女優松林うららが、蒲田在住の売れない女優(蒲田マチ子)を演じ、映画オーデイション等で起こる不条理や、食堂のバイトで生活費をねん出しながら、女優としてなかなか目が出ない日常へのイラ立ちを経て、この街で成長していくストーリーである。

映画において、そのプレリュードとなる導入部は映画の成否をも決めてしまう程大切だが、この映画はその部分においてかなり成功している。
呑川の河畔に立つ巨大マンションをロングで映し出し、背後で女性が映画オーディションを受けるにあたっての制作会社との守秘義務を読み上げる音声が流れる。
茫洋として広がる街の景色に、緊張感のある女性の声が重なるこの部分は、後に現れるオーディションの光景に不安定な緊張感をうまく生み出している。

オーディションに疲れ、マンションに帰ってきたマチ子を迎えるのは、姉の所に転がり込んでいる弟(須藤蓮)であり、そこからは彼が手に持つハンディカメラの映像となる。
弟は大学教授から払下げでもらったカメラで姉の帰りを待ち受け、ドキュメンタリー監督のような質問をマチ子に浴びせ、疲れ果てた姉の姿を執拗に迫り辟易される。

次のシーンは、マチ子がバイトするラーメン屋が舞台となり、バイトする姉のところへ恋人節子(古川琴音)を連れて紹介する場面となる。
この場面でも、カメラは節子のバストショットとなり、彼女のインタビューが始まるが、この映像はハンディカメラのものではなく、撮影用カメラで撮られている。
「食べられるときに食べておかないと」とラーメンをお代わりする節子に、二人はあっけにとられるが、それ以上に彼女の持つ浮遊するような個性に惹かれてしまう。

このあと、カメラはラーメン屋「味の横綱」の店主夫婦のインタビューをドキュメンタリータッチに映し出すが、これがなんとも味のあるご夫妻で、長年ここで店をやってきた二人のリアルな日常を伝えているが、まさかこれが俳優さんが演じているとは思えないし、そうだったら別の意味でスゴイ。
映画を観た人はきっとこの店でラーメンを食べてみたいと思うに違いない。

次のシーンは、蒲田の街中でセリフの稽古をするマチ子の姿が映し出され、商店街の雑踏の中でカメラは再びマチ子のバストショットとなり、マチ子が自身を語る。

このあとの展開は、不可思議な節子に興味を抱いたマチ子が、節子の後を付けて務める病院を訪ねたり、逆に節子が再びマチ子をラーメン屋に訪ね、付き合ってほしいことがあると誘い出し、ノートに書き留め節子ののやってみたいことを二人で実現したりと、ストーリー展開に追いつかない場面があるが、別れ際にはマチ子もすっきりとしたような表情となり、オーディションでの役者のセリフを再びゆっくりと唱え歩くシーンで終了する。

「からっぽだから、私たちは、命という瓶に水を入れ、時折磨きこんでゆっくり満たしていけばいいんだよ」

第二話「呑川ラプソディー」は、昔の学友仲間と蒲田で久しぶりに会うことになったマチ子だが、なかなか芽の出ない俳優生活を素直には語れず見栄を張る
結婚と仕事という世代のテーマを抱えながらそれぞれがそれぞれの道を語るが、結婚を控えた友人が、みんなで行った風呂屋でばったり婚約者の浮気現場に遭遇し、そこから五人の女たちの抱える本音があふれ出し、収拾がつかなくなる。
舞台演劇のようなバタ臭さもあるが、女性たちの強い焦りと不安が映し出されている。

 

第三話「行き止まりの人々」では、再びオーディションに通うマチ子の日常が舞台となり、セクハラまがいのオーディション内容に憤慨し、一緒にオーディションを受けた女優黒川とともに爆発してしまう。
映画界にはびこるセクハラ体質を女優の視点から暴き、演者の熱演がリアリティを高めている。

第四話「シーラカンスはどこへゆく」は、それまでの流れとは直接関係ない設定で進むスラップスティックストーリーで、モノクロの映像で素人演者を相手にロケを進める監督の姿をコミカルに映している。
全く関係のないストーリーかと思いきや、最後にこの撮影に出ている子役のリコが、姉のマチ子に宛てた応援メッセージのモノローグとなっていた。

全編をそれぞればらばらの表現方法とテーマ設定だが、主演の松林うららが全編の企画とプロデュースに関わっており、ある意味現代女性の成長譚としてとらえることもできる。

蒲田行進曲に引っ掛けたこのタイトルのことを考えると、映画に魅了され、映画の世界で生きてゆくことを夢見つづける、若手の俳優や映画製作関係者にとつては、これが新たなプレリュード(前奏曲)となり、よりよい映画が作り続けられていくことを願ってはやまない。

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