早春 小津安二郎作品

小津映画を語る人には、なぜかあまり取り上げられない映画であり、その映画評を聞く機会もなぜか少ない。

私は戦後の小津映画に度々登場する女優、淡島千景が好きである。

淡島は、それまでの小津映画には、『麦秋』(1951)と『お茶漬けの味』(1952)に出演している。

他の出演映画を含め、淡島の演じる役柄は、溌剌とした活発な女性が多く、コケティッシュな(例えば、オードリーヘプバーンのような)女性の魅力を存分に発揮したものが多くそんな彼女の立ち振る舞いがとても好きでした。

しかし、この早春で主役の夫婦を演じる淡島は、その闊達なイメージを封印し、夫(池部良)の愛情の不在に不安を抱き、夫と職場仲間の女(岸恵子)不倫に傷ついていく女の情念を見事に演じ切っている。

そもそも、小津監督がストレートに男女の物語を中心に描いたこのストーリー自体が特質すべき作品であり、それまでの(これ以降も)映画とは異質な感じがすることも、映画評論の筆を遅らせた原因かもしれません。

もちろん、1948年作品である『風の中の牝鶏』も夫婦の情愛のすれ違いを描いた作品ではあるのだが、この作品はその情愛の背景にある社会(戦後直後の社会の人間像)問題がメインテーマとして描かれているからだ。
この映画も、小津作品としては異色のイメージを持つ作品と評されているが、早春ではさらに戦後日本のありようを予見的にとらえている作品といえるだろう。

早春を初めて観た時、この映画が1956年の作品であるということに戸惑いを覚えた。
それは、物語りの背景となっているサラリーマン社会の悲哀が、こんな時代から顕在化していたという事によるものだ。
まだ、戦後10年を過ぎた頃の都市社会で、60年代の団塊世代の登場前にこうした問題がテーマとなっているという事実についてである。

二十歳前後の青春時代を戦場に過ごし、命からがら帰国できた若者たちが、ようやく取り戻した平和な世の中がそれであった。

ある意味、この時代の若者たちは、平和な社会という理想からどんどんずれていく社会のありようについて戸惑いを始めた世代なのかもしれない。

主人公たちは、戦地を転戦し生き残った者同士たびたび戦友会を催し、旧友を確かめるのだが、戦地で歌った歌を合唱し、戦死した友のことを語り、戦地で食べた犬の味を語りしている時がなによりも活き活きとしている。
そして、会社生活に戻ると再び迷いの中に埋没してしまう。

戦友会の帰路、酔っぱらった二人の友を連れて家に泊まらせるのだが、そのだらしない姿を見た妻は、実家戻り母(浦辺粂子)に「あんなのが兵隊だから日本は戦争に負けたのよ。子供の命日さえわすれているんだもん」と夫の不義理を詰る。

このように、男と女の情愛さえも、戦後社会の中でじわじわとズレてゆき、それぞれがそれぞれの孤独を深くしてゆく。

戦後生まれの我々が錯覚していた、60年代の高度成長の中で、団塊の世代の憤りとともに現れた、戦後社会への反乱の因縁が明らかに、戦争と戦後社会の中で産み落とされていたという事を改めて教えてくれた映画ともいえるのではないだろうか。


早春